労働法を根本から問い直す – ル・モンド・ディプロマティーク日本版

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 労働法の根本的な改革の必要性を否定するには、盲目でいなければならないだろう。人類の歴史において、技術の変化は絶えず制度の改革をもたらしてきた。過去に起こった産業革命のケースがそうだった。プロレタリア化、植民地化、そして戦争と殺戮の産業化につながる端緒を開いた産業革命は、旧来の世界秩序を覆した後、国際的な諸制度の改革と福祉国家の創出をもたらした。域内平和と戦後の欧州諸国が経験した繁栄の時代のおかげで、こうした新たな国家像と彼らが基礎に置いた3本の柱が形成された。1つ目は公平で効率的な公的サービス、2つ目はすべての人々が享受できる社会保障、そして3つ目は、最低限度の保護を給与労働者に約束する規定を雇用に付与する労働法だ。

 第二次産業革命[訳注1]から生まれたこうした制度は今日では不安定なものとなり、問い直されている。社会福祉・税・環境保護の面で最低コストを追求する国際競争を衰えさせない新自由主義政策によって、それらは不安定な状態に置かれているのだ。情報革命もまたこうした状況を生み出す原因となっている。この情報革命によって、労働界は産業労働の時代から「ナレッジワーカー」(1) [訳注2]、すなわち「情報を常に受信し続ける」労働者の時代へと移行した —— 労働者は機械的に命令に従うことをもはや期待されてはいない。受け取った信号にリアルタイムで反応し、割り与えられた目標を達成することが要求されているのだ。こうした政治的要素と技術的要素は実際には結びついている。だが、それら二つの要素を一緒にしてはならない。なぜなら、新自由主義は可逆的な政治的選択である一方、情報革命は様々な政治的目的の実現に利用されうる不可逆的な事実であるからだ。

 自動機械化、労働の目的、あるいはウーバー化に関する昨今の論争をかき立てるこうした技術の変化は、テーラーリズム[科学的経営管理の理論と実践]のもとで始まった、労働における人間性の剥奪を深刻化させる可能性がある。だが同様に、国際労働機関(ILO)憲章が規定しているような「本当に人間らしい労働のあり方」[訳注3]の確立が技術の変化によって可能になるかもしれない。それは「持てる技能と知識を最大限活用し、共通の福祉に最もよく貢献する満足感(2)」を働く人にもたらす労働だ。そのような労働の展望については、「労働の商品化」[という過去の概念]に戻ることは想定されず、賃金労働のモデルを超えるものとなるだろう。

 雇用は“交換”を意味しており、1970年代まではそうして確立されてきた。すなわち、安全と引き換えに服従を受け入れるのだ(3)。労働時間の制限、賃金の集団交渉、損害を被った場合の保障と引き換えに、給与労働者はみずからの仕事におけるあらゆる自律を放棄する。すべての工業国の様々に異なる法的形態のもとで確立されているこのモデルは、社会正義の適用範囲を賃金に関する規定、仕事中の身体的安全、組合活動の自由だけに限定している。その反面、労働そのもの —— 労働の中身と実践方法 —— についてはその範囲から除外されている。なぜなら、資本主義世界においても共産主義世界においても、労働は「科学的組織化」(いわゆる「テーラーリズム」)に属するとみなされてきたからだ。したがって、そこには自律が存在する余地はどこにもなかった。自律は、企業幹部と独立事業者だけが持つ特権であり続けてきたのだ。

 情報革命はすべての労働者が一定程度の自律を得る可能性を提供するが、それと同時に、人間性が剥奪された労働形態に彼らを服従させるリスクももたらす。そこには独立事業者、経営幹部、あるいは知的専門職も含まれる。実際、この革命は新たな技術の使用を普及させることにとどまらず、経済の力の重心をも動かしている。その重心は生産手段の物質的所有よりも、情報システムの知的所有に置かれている。そして、その力は実行を強いられる命令によってではなく、達成目標の設定を通じて行使されている。

 かつて起こった産業革命とは違い、新たな機械によって節約され、凌駕されるのは人間の体力ではなく知力だ。より正確に言えば、記憶と計算の能力である。信じられないほど強力で、速く、意のままになるそうした新たな機械は、—— 博識な情報科学者のジェラール・ベリーが好んで繰り返し言うように —— まったく愚鈍で単純なものでもある(4)。かくして、労働の「ポイエティーク」な部分、すなわち、想像力・感性・創造性が要求される部分 —— それゆえ前もってプログラミングできない部分 —— に人間が集中できる可能性が、そうした機械によって提供されている。

 しかし、人間がコンピュータをコントロールするのではなく、人間の労働をコンピュータ中心の労働モデルに基づいて組織しようとするならば、情報革命は結局は新たな危険の源になる。コンピュータへの従属はその際、労働の自律をもたらすどころか数字による支配の形態を取り(5)、その支配はテーラーリズムが身体だけに及ぼしていた影響を脳にまで広げてしまう。

 人間のプログラム化を狙ったこうした空想的探求は、現実の経験から人間を切り離す。精神衛生面のリスクが急激に増し(6)、かつてソ連の経済計画が引き起こしたもの —— 当時、ゴスプラン[旧ソ連の国家計画委員会]が要求していたブーツ数を満たすのに必要な分の革がなかったため、子供サイズのブーツだけを製造していた —— と同じような不正の数もまた増える原因となっている。到達し得ない目標に達するよう強く命じられた労働者は実際、うつ病になるか、もしくは非現実的な成果指標を達成しようとして誤魔化すほかにはほとんど選択肢がない。

 数字による支配が生まれるサイバネティックス[生物と機械の間に共通点を見いだし、通信と制御の問題を統一的・体系的に追求する学問]が想像する世界は、「グローバリゼーション」による —— すなわち、全体に行き渡った市場の力によって「開かれた、壮大な社会」の自動調節機能による —— 新自由主義的な展望と完全に調和している。そうした理由から、この種の支配は世界人権宣言が「法の支配」と呼ぶものを犠牲にしながら拡大していくのだ。

 したがって、人間の精神を失わせることなく解放するために、ITツールをコントロールし賢く活用するのに適した法的手段が見つかる望みを持てるのは、使い古された新自由主義の処方箋の中ではない。40年前からすべての国で多量投与されてきたこうした処方箋は、私たちがいま生きている世界の形成に影響を及ぼした —— 天然資源の過度の開発、金融界による経済の略奪、あらゆる種類の不平等の急激な拡大、戦争と飢餓から逃れた人々の大量移住、宗教的熱狂と閉鎖的アイデンティティへの回帰、民主主義の衰退、稚拙な考えしか持たない権力者の到来。最低限の良識が要求するのは、この惨憺たる結果の責任者たちが強く勧める「構造改革」をフランスで機械的に採用し、この誤りに固執するのではなく、過去の経験から教訓を引き出すことから始めることだ。とりわけ法律面に目を向けなければならない。

 新自由主義の特質 —— かつての自由主義と新自由主義を分かつもの —— は、法律全般、とりわけ労働法を、国際的な「規範の市場」[訳注4]において競い合う「法律製品」として扱うことにある。この市場において唯一有効な論理は、社会福祉・税・環境保護の面で最低コストを追求する競争だけだ。かくして、法治国家(rule of law)は「法律市場」(law shopping)に取って代わられてしまった。その結果、法を後ろ盾にして経済が予測されるのではなく、実用性の計算を後ろ盾にして法が存在している。こうした変化は多くの重大な影響をもたらすと同時に、私たちの法を肥大化させ、不安定なものにしている。その最前線にあるのが税制法と労働法だ。

 原則として、市民生活にとっての法は、私たちの物質的生活にとっての家 —— 壁や屋根、扉、窓、それに様々な用途の部屋を支える、ぐらつかず安定した骨組みと環境 —— と等しい。だが、法を即時に実用性の計算と結びつけることは、すべての安定性を法から奪うことになる。それは、壁が柔らかく、絨毯は足にくっつき、天井はたわみ、窓と扉は日に日に位置が変わる呪われた家のようなものだ。こうした建物の中に捕らえられた人は、当然それを打ち壊したい気分になるだろう。このような呪いをかけた悪霊は、そうした行為に大いに満足するだろう。

 そして事実、今日、労働法を声高に非難しているのは物事を簡略化しようとするお偉い方だが、彼ら自身がそれを年々重くし、複雑にすることに勤しんでいるのだ。彼らは最も新しい法律のインクが乾くことすら待たずに次の法律を起草し始めようとする。雇用状況を改善しうるマクロ経済的な重要手段(貨幣の支配、貿易取引上の国境のコントロール、為替レート、公共支出)をすべて失ってしまったフランス政府は、手の内に残っている手段に夢中になってしがみついている。それが、雇用の妨げになっているといわれる労働法だ。だが、この議論を裏付ける確かな研究結果は一つもない。

 企業が社員を解雇する際に必要な行政の事前許可[訳注5]が1986年に廃止されて以降(オランダでは今日でもこうした法律が残っており、失業率は4.8%である)、労働市場の柔軟化を進めるたびに雇用が創出されるという夢のような約束は一度も守られなかった。欧州で最も失業率が高いのは南欧の国々であるが(7)、彼らはこうした労働市場の柔軟化を最も進めた国々だったのだ。その反面、会社法(たとえば自社株買いが認可されており、それによって、資本が損なわれ投資が減っていても株主たちは持ち分について対価を支払うことなく富を増やすことができる)の改革も、会計法(たとえば、公正価値[時価]を重視し(8)、保守主義の原則を放棄する)の改革も、あるいは金融関連法(たとえば「大きすぎて潰せない」というような「不可侵性」を享受する民間銀行が存在している。それは今日、債務危機に陥った国々には認められていない)の改革も、一切見直されることはない。投資や雇用にマイナスの影響をもたらすものを含んだ、多くの法改正が明るみに出ている。今なお「ニュースピーク」[訳注6]が用いられる中で、不当解雇に対する補償に上限を設けることは「勇敢な改革」とみなされる一方、経営トップが解雇を利用して[株価を上げた結果]得られるストックオプションの利益に上限を設けることは「大衆迎合的」だと評価される。

 したがって、オルー法(9)が公布された1982年以降、労働法はその名にふさわしい改革[レフォルム]を経験していない。実際、「レフォルミスム」[réformisme]と「トランスフォルミスム」[transformisme]を混同してはならない。アントニオ・グラムシによれば、トランスフォルミスムは、中央での統治を主張しながら、権力の座に就いたり留まるために外部からの制約にただ適応するだけの政策を意味する。その逆にレフォルミスムは、平和的に生み出されるより公正な世界の計画が推し進める政治活動を意味している。今日において労働法を真剣に改革するには、ある種の経済的民主主義の導入を目指さなければならない。さもなければ、政治的民主主義は衰退し続けるだけだろう。改革が目標とするべき理想的境界は、新たな安全 —— [労働者の]自発性を可能にし、フォード主義モデル[訳注7]から引き継がれてきた「消極的安全」を補完する「積極的安全」(10))—— を提供することにより、労働生活におけるさらなる自律と責任をそれぞれの労働者に与えることだ。だが、労働と企業の組織化の中で1981年から生じた根本的変化の考慮なくして、その理想的境界には近づけないだろう。

 こうした改革の第一条件は、その[「改革」という]名が促すように、「雇用を超えて」労働法を拡張し、経済的に従属状態にある、あらゆる形態の労働を包括することだ。デジタル革命もスタートアップ企業モデルも、独立労働[インディペンデントワーク]と小規模の協同組合に基づいた解放に新たな希望を与えてはいるが、現実ではむしろ、独立労働と従属労働の間の境界が曖昧になっている。労働者はその際、程度の差はあれ、彼らの自律性を減少させる従属関係の中に陥ることになる。

 「労働者たちと彼らが提供するサービスの利用者をつなぐITプラットフォームによる仲介は、独立労働の再生の下地になる」という考えは、ウーバーが示した様々な事実が否定している。ウーバーの運転手たちは自分が雇用された労働者だと認めてもらうためにコレクティブアクション[労働者自身による集団訴訟]を実施し、ある程度の成功を得たのだ。それに米国や英国では、ウーバーの運転手の契約は雇用労働契約だといくつもの裁判所が新たに認めた(11)

 こうした変化に直面した今、エマニュエル・ドケス率いる法律家グループが発表したばかりの刺激的な『労働法の提言』(原題: Proposition de code du travail、未邦訳(12))が示すように、経済的従属性を労働契約の基準にするべきだろう。この基準の採用は労働法を単純明快にする要素となり、また同時に、この基準によって労働者の保護の度合いを彼らの従属性の度合いに合わせることもできるだろう。“目標による管理”は実際のところ、[封建時代の]「土地保有態様と奉仕の義務」—— 小作人はそれによって土地の利用を認めていた地主との主従関係に置かれていた —— の古い法的形態を再び生じさせる。こうした従属関係の復活は、今ではITツールによって可能となっている。ITシステムを保有する者は、このツールによって、命令を与えることなく他人の仕事をコントロールできるのだ。

 こうした従属関係はネットワーク化された経済の法的な骨組みを形成し、さまざまな形態で、企業リーダーから賃金労働者まで、労働の組織化[訳注8]のあらゆるレベルで見出される。企業リーダーは株主やクライアントの要求に従い、賃金労働者は「柔軟性」、すなわち、素早く反応することができ、いつでも働ける状態であることが求められているのだ。ウーバー化に関する議論は、(自律を与えるという)約束を守り、これらの状況に固有の(不当な搾取の)リスクを回避できる法的枠組みの必要性を例証している。

 このような状況の中では、企業内における交渉を労働法の重心に置こうとする改革がどれだけ時代遅れで問題外であるかが分かる。1935年の米国ではこうした選択は適切になり得た。ニューディールの時代背景の中、この選択が全国労働関係法[ワグナー法]の採択に大きく貢献したのだ。しかし、2017年においては、ネットワーク化され、国境を越えた労働の組織化が提起するさまざまな問題には対応できない。このような組織化の実情を考慮に入れるならば、まったく別の改革プログラムが打ち立てられよう。ここではその中の数例しか挙げることができないが。

 提起すべき1つ目の課題は、労働者たちが自らの仕事の意味と内容に対してある程度の影響力を持つことができる方法に関してだ。オルー法によって認められた、労働者たちが集団になって要求を表明する自由は、この問題についての端緒を開いた。仕事についての考え方とその組織化を集団交渉と労働者個々人の関心の対象としながら、この議論を再開することが必要だろう。今日、こうした労働の組織化は自殺や社会心理的不安を生み出すとされ、消極的にしか取り組まれていない。この問題は前向きに、そして[そうした社会不安に対する]予防措置として取り組まれるべきだろう。

 さらに、この集団交渉は適切なレベルにおいて実施されなければならない。業界や企業のレベルだけの交渉では十分ではない。特に、次の2つのレベルが規定され、編成されるに値するだろう —— 1つ目は調達と生産のチェーンとネットワーク、2つ目は地域のレベルだ。このようなレベルで交渉することによって下請け業者側の個別利益を考慮に入れることが可能となり、彼らが従属している企業を前にして、下請け労働者たちの利益も配慮され得る。さらには、一つの地域の活力に貢献しているすべての利害関係者を交渉に関与させられるかもしれない。ここでもまた、一企業・一業界における雇用主と賃金労働者の二者協議はもはや適切ではなく、交渉テーブルの周りには、その他の利害関係者も同席する必要があるだろう。

 3つ目のテーマは、企業間ネットワークにおける責任の分担についてだ。こうしたネットワークがあるおかげで、それをコントロールする企業は経済的な力を行使し、下っ端の企業に様々な責任を押し付けることができる。したがって、このネットワーク内に存在する各企業の責任を、彼らが手にしている自律性の実際の度合いにスライドさせるといった課題が提起される(13)。こうした改革を実施すれば、現在の企業の社会・環境に対する責任(RSE)は明確なものになるだろう(14)。RSEは、かつてパターナリズムが自由主義に対してそうだったように、新自由主義に対する歯止めとなる。必要なこととして、こうした改革によって、ネットワークを支配する諸企業に、労働の組織化が引き起こした損害に対して連帯して責任を負わせることが可能になるだろう。その組織化は彼らが構想し、コントロールしているものだ。

 国際的なレベルでは、国際労働機関憲章の前文からあらゆる教訓を引き出さなくてはならない。この憲章によれば、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」[訳注9]。そしてまた、国際分業と地球上のエコロジカル・フットプリント[人間の生活が自然環境に依存している度合いを分かりやすく示した指標]の問題は切り離せないという事実も考慮に入れなければならない。したがって、社会・環境の基準は、グローバル貿易の基準と同等の法的強制力を備えなければならない。それは、こうした基準を尊重する国々に対し、それらに違反する状況のもとで製造された商品を市場から締め出すことを認める権限を持った、係争解決のための国際機関の設立を前提とする。かくして、新たなコレクティブアクションに訴えることは —— そこには上記のような製品のボイコットも含まれる —— 組合活動や結社の自由に本来的に内在する自由として認められるだろう。EUはこのような改革の前線に立ち、その条約の中に記載されている「平等な発展」という目標をふたたび確立することができれば、その政治的正当性を取り戻すことができるだろう。その際、欧州司法裁判所が行なっているように、社会福祉・税制面で最低コストを追求する加盟国間の競争をかき立ててはならない。

 最後に、志を高くして労働法を改革しようとするならば、特に子供の教育や高齢者援助に関わるような非営利の労働も考慮に入れるべきだろう。そのような労働は社会にとって必須であるが、経済指標には反映されにくい。人口照明の発明によって毎日、昼も夜も働くことが可能となって以降、我々人間の生体リズムに合い、プライベート生活や家族生活における権利(人権)を尊重する[労働の]時間・空間的枠組みを確立したのは労働法である。この枠組みは今日、新自由主義とIT化によって脅かされている。それらは結びつき、金儲け主義の労働の支配をあらゆる場所・時間に拡大しているのだ(15)。支払う代償は、特に教育の観点で見れば途方もなく大きい。しかし、日曜労働や夜間労働に執着する人々はそれをまったく考慮に入れていない。人間的生活の商品化から免れてきた「社会的時間」が残り続けることを、彼らは快く思わないのだ。

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